春の夜
歩く。
その薄く色づいた砂浜を、歩く。
「星の砂って、有孔虫の殻なんだって」
永遠性を忌むノノが、どこまでもつづいているみたいに、波に攫われてしまいそうになりながら、歩く。
「まあ、実際に砂であるよりかはロマンあるわね」
ほら、ねえ、視界が、よるが、藍が、星が、きみが、滲みだした。曖昧に、くっきりとした輪郭で、融けだした。
春の夜の薄曇りであろうその空は、見上げるのさえ困難だ。
▽
たとえば俺は風船ひとつ貰えば空に飛ばしてみたいなと言いながら手に紐をぐるぐる巻いたし、彼女は買い込んだありったけの風船を秋晴れに天高く飛ばした。
彼女はシャッターを切ることもなく、細っこい首の折れそうなままその光景をどこまでも直線的に見詰めていた。
あれからノノは度々病室にやって来たが、じつのところ俺はノノのことをあまりよく知らない。ノノは無口ではなかったが、自分のことを進んで話すというわけでもなかった。青という色と西洋画が好きで、無色と聞いてしろいろを思い浮かべるひとが嫌い。それだけ。
珍しく母親がここを訪れた、翌日の出来事。縹の空をぼうっと眺めていると視界の隅に昨日置いていったらしいトートバッグがポツリ。白と呼ばれるその色、なぜかこの病室に馴染まない。
その鞄の傍にしゃがみこむ誰か。思わず五十音には含まれない一音が零れ落ち、誰か、ノノは振り向くこともせず「魂抜けてたね、おかえりい」と声を伸ばした。冬の風鈴みたいに、夏の落ち葉みたいに。視線は、手元に釘付け。釣られて目を遣れば、そこには。
「ねえなにこれ」
「…………ラッキースター。折り紙でつくった星」
ひからないちいさな星、不安定な温度のパステルカラー、天井に透かせるその仕草。
「なにジジくん、絵描けるうえに折り紙までできんの?」
「どっちもできねえよ、それは貰った。あーーーー、そのどっかにくっついてきたか。もう捨てたとおもってた」
じ、と焼くようでもない視線がひとつ。
「貰ったって、誰に?」
「クラスメイト」
「クラスメイト」
「...お見舞い、だって。昨年、クラスメイトみんながひとつずつつくって、名前と一言書いてあって、瓶に詰めて持ってきたんだ。薄いピンクとか、みずいろとか、クリーム色とか、ぎゅうぎゅう詰まって、くるしかった。まだ春だった、まだ、名前だって知らなくて、なんて、ぜんぜん登校してねえんだから当たり前だけど、......、なに」
「ジジくん」
「なに」
「ジジくん、ジジくん、ジジくん」
「なんだよ」
「ジジくんは、星が、きらい?」
「きらいじゃない」
「すき?」
「きらい」
嫌味なほど陽に透けたその声は、震えたその指先は、触れた先からつたわるその温度は、すこしも嫌じゃなかった。
嫌なんかじゃ、なかった。
「ねえ、抜け出そうよ」
春の夜とは、相反の共存である。
病院の近くに砂浜のある海岸があった。確か、海よりも空がひろかったきがするから、俯いたまま海鳴りを聞く。
「なんで、こんなこと」
「星が綺麗な夜だから」
「は、星が綺麗なのは冬だよ」
「どうして?」
「乾燥してて空気が澄んでるから、あと、暗いから」
「せかいが?」
「せかいが」
微笑み、しろで塗り潰すみたいにしずかだ。
余韻にさえ魅入っているうち、砂浜を歩き始めた彼女を慌てて追った。足跡がちいさい。今夜みたいに曖昧な他愛ない会話、すこしずつ結んだ。
「ねえ、わたしね、星が好きよ」
「...どうして?」
「ひかるから」
ぴたり、砂が足を飲む。生暖かい風に乗る海の匂いが鼻先を掠めて、つんとする。
「綺麗に、ひかるから」
「...そーかな」
「見えない日もあるね。でもひかってないわけじゃないし、今日は快晴じゃないけど、雲が薄いから、きっとよく見えるよ」
「...星、綺麗?」
「今夜はまだ見てない。ジジくんと一緒に見上げようとおもって。でもね、今日もきっと綺麗だから」
「......ほんとう?」
「ほんとう。ね、手ぇ繋ごう、3秒数えるから一緒に見上げよう、...さん、にい、いち...」
だれかの言うこと、理屈のわからないこと、繋いだ手、一瞬でも信じたのなんて、いつぶりだろうね。
星空見上げるなんて、いつぶりだろう、ね。
「...ほんとだ、.........きれい、だ」
ザザ、ン。
「...あは、うそ、そんな泣いて、わかんないでしょ」
「うそじゃない」
「ほんとう?」
「......ほんとう」
砕けた視界、春の夜、水平線上、星を取り巻くその群青に、きみを見たきがした。
「ほんとうに、きれい」
帰りはすこし歩いて、彼女がポケットから徐ろに取り出した暗くてよく見えないへんな色をした星形のなにかを奪い取り、潰れてしまいそうなほどつよく握り締めて、勢いよく海の彼方に飛ばした。
星は沈み、朝がやってくる。
あしたの朝焼けが綺麗なことを、俺はもう知っている。