黎明

よく見る夢は無いけれど、忘れられない夢がある。

ふらついた高校卒業間近に見た夢。あの懐かしのグレーのセーラー纏うノノさんが向こうを見ていて、薄い身体翻し、俺だけに完璧に破顔して言うのだ。

「さびしいの?ジジくん」

あの涼やかな目元をこれでもかと弓なりにして、甘ったるくしろい歯覗かせて、ああ作り物みたいに清廉な桃色の頬。

違う。

涼やかな目元は大気に瞬くだけで、僅かに綻ぶ唇の端。ピンクの、遊泳の指先。

「さびしいよ、ずっとひとりだ」

「あのね、ジジくんはいちいちかんがえすぎなのよ。貴方は貴方がおもっているほどひとりじゃないわ」

「嘘つき」

プチンッ

その日は真夜中に目が覚めた。全身にじっとりと汗をかいていた。



かつて中学校の踊り場に飾られていたプールの水面描いた絵はつめたい家に閉じ込めてある。飛び出してしまわないよう糸をかたく結んで。

彷徨っている。

こうしてはじめているのはじぶんで、それでもときどき恐ろしいほどの焦燥に襲われることがあった。俺への興味の無さを隠そうともしない両親。高校時代の浅い級友とは連絡をとっていない。バイト先でだって誰もと挨拶程度で。小中学生時代なんて以ての外。ねえ、俺がいま弾けて消えてもだれも気づかないんじゃない。

彷徨っている。

彷徨っている。

鬱屈した藍が背中にも手にもべったりと張り付いていた。

「気持ち悪い」

「え、どこが?奇麗だけど」


「う...っわあ!!」


東京らしくもないちいさな森のなか、耳元に突如出現したのは見知らぬおんなのこ。「驚かせ甲斐あるねえ」なんて悪戯っ子の瞳してころころわらうその様子に、こちらも臆することなく眉を曲げることができた。

「青いね。青の空気。もしかして東京の空気を描いてるの?」

手が止まる。

「よくわかったね」

「どうして手で?」

「筆で描くよりも好きだから」

「ふうん。真似してみようかな、あたしもこういう奔放で無軌道なの好きだし。貴方はずっと手で描いてきたの?」

「まあ最近はそうだね」

第一印象はちいさな鳥のようなひと。彼女は昨年の春に恋人と上京してきて、この森のちかくの芸術をやる短大に通っているそうだ。囀るようなメゾ・ソプラノ、妙にぽっかりとした発音が耳に残った。「最近って?」「高校からだから、もう6年になる」「せ、成人してたの、ですか」「1週間後に22歳になる」「歳上だったんですネ...」崩れて零れた居心地悪そうな表情がにんげんっぽくて少し落ち着く。敬語なんて落ち着かないから、と言えば無遠慮に外された語尾、あっけらかんとペースを取り戻すその態度は俺の胸を軽くさせた。

押し付けた親指がパレットから掬い上げたのは、混じり気のないシアンだった。

高校に上がった途端ぐんぐん伸びる背丈に改善する体調。しろい四角への沈溺の日々、泡みたいに弾け飛ぶ。置いてけぼりくらった稚拙な精神には、ノノさんに会いに行く勇気が無かった。

最後がいつだったのかも定かではないまま、垂れ幕が下りたのだ。重い。

世間体気にした両親に滑り込まされた定員割れの高校は錆び付いていて、やはり通う気になどなれず、イーゼルを立てる場所を探し彷徨う日々。筆を持たなくなったのはその頃からだった。筆先から機械的に生み出されるのは狂いなく張り詰めたお手本のような風景画ばかり。ただ息苦しくて、ただたすかりたくて、筆を滑り落とした。新たに画材買うお金など無い俺にあったのは藻掻くその手だけだった、頼りなさげに伸びる五本指。

それから高校を卒業してもなお、手が千切れそうになりながら描きつづけている。絵に、嵌ったらしかった。

貯めたバイト代叩いて夜行バスに揺られ来た東京。そこで出会った彼女は結局その日俺のキャンパスに色ぶち撒ける作業をぼんやりと、けれど決して逸らすことなく見ていた。

「あたしひとが熱中してる姿見るの好きなんだ」

「俺はじぶんが熱中してなきゃ不安で不安で生きた心地がしない」

「不安?どういうふうに」

「海を見たときみたいにこわい」

「へえ」

「知らなくておおきい。この手のひらに乗らない」

粗いコマ撮りのようにひらいた手のなかからはなにもでてこなくて、そこには必死に重ねられた絵の具の端と端がぎゅるりと混色していた。

「そら、そうやわ」

落とすように返された言葉に漸く彼女本来の発音が食み出した。

彼女は俺が予約していた民宿まで着いてきたかとおもうと、家主のおばさんと意気投合した挙句ごく自然に夜ごはんの準備を手伝い始めたその姿には脱帽する他なかった。素泊まりだったはずだが、あれよあれよという間に出来上がった三人前のちゃんこ鍋、囲んでしょうもない話を繰り広げる。物語のなかみたいだとつい零れ、真横の彼女に聞き取られたきがして汁を啜って誤魔化した。やさしくてすこし甘ったるいような味がした。

落陽した東京は一匹狼の紺青。

「今更だけど夜ごはん食べてってよかったの、恋人と住んでるんだろ」

「んー、どう、かなあ」

おばさんに強いられて彼女を送る駅までの道、観測史上最小音量の言葉は引っ掛かったが。

「ん?」

「いや、連絡はしてあるんだ。じゃ、今日はどうもありがとう。バイバイ!東京ライフを楽しんで」

「おー、バイバイ」

馬鹿げた放浪も悪くないかもしれない、いつか忘れるだろう名も知らぬおんなのこに大袈裟に手を振った。

東京は想像していたよりずっと静かな街で、特に早朝の都会の洗いたての青はなかなか見物だった。

始発でさまざまな都会まで電車乗り継ぎ、傍の公園や森林のなか夕闇まで夢中で色を乗せ、夜を徘徊しがてらコンビニで翌日用の弁当なんかを購入し、深夜おばさんの寝静まった宿にひっそりと帰る、繰り返し。

枕元のキャンパスが塗れて積み重なって塔になる。ぐらついていた。

そうして何日か再生しておとずれた夜。寝苦しい夜。あの懐かしのグレーのセーラー纏うノノさんが向こうを見ていた。ああ夢か?夢だろう。随分ひさしぶりじゃないか?あれきりだとおもっていた。ノノさんは薄い身体翻し、俺だけに完璧に破顔して言った。

「さびしいの?ジジくん」

あの涼やかな目元を弓なりに、しろい歯覗かせて、ああ作り物みたいに清廉な。

違う。

涼やかな目元は大気に瞬くだけで、僅かに綻ぶ唇の端。ピンクの、遊泳の指先。

違う。

嘘つきは、俺だ。

振り向かない。

背後から首に手を掛けた。確かに傾けて締め上げてゆく。細い髪の束の隙間、ねえ、鬱血したその頬の清廉に花添わせたいよ。力を込めた。

「ノノさんごめんね、ありがとう、さよなら」

初恋だった。

夜が、明ける。

プチンッ


「...なあ!なあって!!」

飛び込んできたのはおんなのこの顔。知っている顔。そうだ東京の初日、あの日あの森で声を掛けてきた子。東京、そうだここは東京だ。彷徨っていた。徐々に冴えていく思考回路の点滅。その間も目の前の彼女はやけに焦った面持ちで俺の両肩を力強くがくがく揺らしつづけていた。

「...え、何事」

「いやなに澄ました顔してんねん滅茶苦茶泣いとるやんか、え?ふつう?日常?日常なんこれアンタ毎日毎朝こんな泣いてんの?枯れんで」

口を挟む間も無いフィクションのような勢い。呆気にとられ瞬けば、成程睫毛がぐっしょりと水分を含んでいるのがわかった。

「なんか、夢、見て。へんな夢。それで」

目を擦りながら思考を巡らせる。あれ、どんな夢だっけ。

「でもわすれた」

「はあ?あんな泣いてたのに?ふうん、まあいいや、それよりねえこっち来て」

「そもそもなんでここにいんの」

「言ってたでしょ。ちょうど一週間後誕生日って」

連れられたそこは初日に鍋を囲んだ卓袱台のある部屋。並んでいたのは、朝食とはおもえない数の品目の色鮮やかな和食三人前と生クリームの歪に絞られたホールの苺ショートケーキ。おばさんが「あらおはよう、泊まってるはずなのにひさしぶりねえ」と機嫌良さげに蝋燭を立てている。「がんばっちゃった」とこれまた機嫌良さげな横の彼女。出会ったあのときとおなじ、悪戯っ子の瞳して。

ころころっ。


「ハッピー・バースデー!バースデー・ソングうたいたいから名前おしえてよ」


さあ、はじめよう。ここからさ。