白昼夢プリズム

「おまえは、おまえは、奇麗だね」

「僕もそこに連れてって、ください」

「傍にいてください」

あたしたちのあの町のさいごの春は、白昼夢のように、朧げ。まぼろしの吊り橋。ララくんは膝からガラガラと雪崩れ落ちていく。

「連れてくのはララくんだよ」

力の抜いた腕を彼に向けて垂らした。絡められた彼の指先には、名残雪が宿っている。

ほっそりとした雪解け。



あの町にはなんにも無かった。帰りに寄れる距離に位置する凍えた動物園、自己投影の氷柱、喧しいくらいの星、星、星、星。あとは、プリズム。三人でこじつけるように必死で形成した、プリズム。それくらい。



「僕、東京行くわ」

ララくんは18になったばかりの夏、むくむく沸き立つ大迫力の入道雲背景に、珍しく張った声でそう放った。

馬鹿みたいなその光景が、いまもあたしの脳裏につよく焼き込まれている。青に侵された沈黙を破ったのはケケくんだった。

「えっ!?引っ越すん!?いつ!?いますぐ!?」

「あほぉ、卒業してからや」

ララくんがころころと機嫌良さげにわらう。

「なんやびびったわ」

「東京でピアノやるねん。ケケは?」

「喫茶店継ぐ言うとるやろ前から」

「えーケケついてきてくれへんの」

「お前こそあほか」

陽炎に目を閉じる。

はい決まり。

「ララくんあたし連れてってーや」

「そーやってお前らすーぐ悪ノリす……」

「……ピピ?」


「絵、したいねん東京で」


そうして、ララくんとあたしは高校を卒業してすぐに東京に吸い込まれていった。ララくんはピアノつづけるために。あたしは芸術の短大入るために。二人で借りたアパートのでこぼこしたしろい塗装が、月に似ていた。

上京、という言葉と月だけが浮上して、あたしたちは、沈む。


沈む。


ぱち。

23。

むかしから日が昇るとすうっと目が覚めた。天井が、高い。横を向くと死んだように眠ったしろい顔が視界を占める。随分懐かしい夢を見ていた。

「なんか弾いてや」

星の瞬く音に掻き消されてしまう音量で唱えた魔法の言葉。濡れた睫毛を見ていると、幽かなアルコールの香り。投げ出された手はかさついている。ながい指をしているだけで、その手はもう、しょげたあたしたちに影絵つくるような、鮮やかに鍵盤操るような、繊細な手ではなかった。

身支度を済ませ、ケケくんのくれた餞別のミルで豆を挽いて珈琲を淹れる。蜂蜜掬ったそのスプーンで珈琲にくるくる渦を描く。一気に飲み干すと不変のスーツのうえに変化のピーコートを羽織って、「いってきます」。

ガチャ、ガチャ。鍵がうまくかからない。狭いアパートにはピアノを置くスペースなんてなくて、彼はよくスタジオに通った。でもいつしかそれも無くなって、この部屋からごついヘッドホンも楽譜も剥がれかけキャンバスも絵の具も消えていた。あたしは短大を卒業して運良く紹介してもらった事務の仕事をして、彼は野良猫みたいな生活を送った。

町を飛び出したあの日、ほんとうはわかっていたし、わかっているふりもしていた。才能も根性も重さもないって。狂った調律。ガチャッ。


クレーターのような窪みに触れる。魔法の言葉、つくったあの頃みたいに。



堕落した三人の高校の帰路、あたしは決まって、マウンテンバイクみたいな型の自転車漕ぐケケくんの横、ララくんの自転車の後ろ錆びた荷台で宙ぶらりんでいた。

あたしたちは月にまつわる話とかそういう曖昧な話をよくした。

「今日はスーパームーンらしいなあ」

「あーラジオで言うてたわ」

「僕さあ、ああいうなんとかムーンっていうんどうかおもうで……月は月や」

ペダル漕ぐ音は止まないのに世界が停止していく。芯に触れる話をするときのララくんの声はよく通った。冷えた空気の隙間にするりと入り込む。勢いよく仰け反ればグラグラ。

あたしは口を開いた。唇が乾燥している。

「月が月なんはあるひとには安心で、あるひとには退屈やったんやろ」

ふ、と吐く息も月だ。

それからあたしはララくんの襟足がベイビーブルーに溶けだすのを黙って見詰める。愛しの痛々しい背中。骨ばっている。凭れられる急勾配を、待っている。


せまい町。ひろい空。口の悪いロマンチスト、ピアノ弾きのララくん。家が喫茶店でやさしいケケくん。ときに狂ったように絵を描くあたし、ピピ。あたしたち三人は運命共同体である、そう信じて疑っていなかった小学生。意地張って喧嘩してはケケくんの家の喫茶店で許しあう中学生。見ないふり、気づかないふりのうまくなる高校生。毎年三人で行った夏祭り。ああでも確か最後の年、高三の夏は流れたんだっけ。

「ケケくん、電話なんやったー?」

「おお、ララ風邪やって、夏風邪。夏祭り行かれへんって」

「えっ」

「お母さんが大袈裟にしてうるさいねんて。アンタふたりにうつしたらどうするんっ、てな」

口調はおばさんのちゃきちゃきとしたそれなのに、声色にケケくんの穏やかさがそろりと覗いていた。くふっ、思わず零れた笑み。ケケくんは安心したように口元緩ませて。

「…やからさー今年は」

「今年は諦めよっか!お見舞い行こうや、ララくんみかんゼリー好きやったやんなあ」

夏の纏わりつく空気を切り分けて先々と歩きだす。そう、カンは冴えていた。腕を、引かれる。

「なあ、俺らずっと、ずうっと三人なんかな」

瞬間、世界の停止。伴う沈黙に張られたピアノ線。

「んー?」

揺らめいていた。

「なんも、ない」



曖昧。揺蕩う。遊泳。きもちいね、ころさなきゃ、ならないね。



ぼうっと意識飛ばしながら夕飯の用意を済ませてしまえるくらいにはあたしは23だった。ガチャリという音で裂けていく。

「ララくん?」

「あ、あー」

「ララくんおかえり。ごはんできてるけど食べる?」

「んー、いい」

掠れた声と交わらない目線。ぞくっとするほど薄い色の膜があった。繊細で、鋭利だったあの頃の彼が輪郭から滲んで食み出している。

だれ?

「あたし、この家出てくね」

潮時だ。

彼は青かった。海のようでも空のようでもなく、かつての猛毒の緑青に似ている。あたしはララくんがどうしようともどうしようもなく好きだった。それでも潮時だ。あたしたち三人のプリズムには、潮時だった。

「なんで」

ひさびさに目が合った。立ち込めた靄が見るたび濃くなって必死に目を凝らしていた。でももう。

「あたし、奇麗なんかじゃないから」

「嘘」

「嘘ちゃうよ」

「そうやな、でもほんとうでもない」

「ララくん」

歪んだ物差し揺らすのもう、やめた。

「だってララくんあたしのこと好きじゃないでしょ」

「好きだよ」

奇麗な、へんな声。ねえ、あの頃、音楽室でピアノ奏でてラブソング口ずさむあの声はどこへやったんだい。胸がちりぢりになって焼けて、すこし、わらえる。

「ねえ、潮時なんだよ」

「ピピ」

「ララくんさ、一度でもあたしのこと想ってピアノ弾いたことある?」

詰まった喉。

さあ。

「見ない振りばっか上手くなってごめん、それしか上手くなくてごめん。ララくんの目、あたしを見るときも他のおんなのこ見るときもいつも靄がかってる」

「…ピピ」

「ララくんが好きなのは」

月の、破裂だ。


「ケケくん」


見開かれた澄み切った目。

拉げた月が、浮かんでいる。ぽっかり。

「帰ろう、あの町に」

泣けない23のあたしたちは、下手くそに微笑んだ。微睡みの春が、すぐそこまで来ていた。