無軌道プリズム
彼の青い林檎の青は、絵の具の青だったのだ。割れた鏡に接吻。接吻はまだ読むので精一杯。
▽
頁を繰る。
その頃ララくんは特に寡黙で、口を開いたかとおもえば飛び出す言葉はよく研がれた鋭利な刃。言葉を知らないひとだとおもっていた。感受性に欠けたひとだと。青い林檎だと。
菜種梅雨の放課後がおとずれる。おとずれたのは、あたし。
やっと掴めてきた、火曜日の昼休みと木曜日の放課後はよくいる。空中でまるめた手を開け閉めしている。そうやって音楽室の扉を開いた。ほら、ばあ。
・
じぶんの林檎の赤を鏡でしらべる11、林檎を漢字で書けるように寝る間惜しんで練習した翌日、初めて探検する場所は音楽室に決定。大音量ノック、予想外の登場人物に余裕の微笑み。
「ララくん?ララくんや、クラスメイトの。なにあったん」
「…あ?」
「ひとひとり刺してきたみたいな顔しとる」
はじめて真正面から一直線上に見たその見開かれた目は、おもっていたよりずっと奇麗だった。食い入るように見詰める。
「黙れブス、どっか行けや」
彼はそう吐き捨て、滑らかな動きで椅子の長方形に腰掛ける。花屑が迷子の子どものように泣きじゃくる午後だった。無音の号泣。彼に、重なる。
「行かん」
「は」
「やって刺してきたのに、じぶんも刺されてきたみたいな顔、しとる」
「…………死ねよ」
ポ ー ン
御伽の国に閉じ込もった瞳の沈溺の、はじまり。
その演奏は、まさに狂気と言えた。
肩捩らせ鍵盤叩く、ピアノと一体化したかのようなその姿勢、執拗なほどに研ぎ澄まされた、無軌道なその旋律。凍りつくほど冷たいのに火傷するほど熱い。
引っ掻くように残された余韻。
「……これ、なんて曲」
過度なまでに無機的な言葉が過度なまでに抑揚無く発音される。
世界を見るときのきめ細やかさは語彙量に比例する。これはよく小説を食らっていた当時のあたしの持論。
なのにああこのひとのこの瞳には世界がどれほどきめ細やかに映し込まれているのだろうか。
抱え切れず零れ落ちるアンビバレント、病的なリズムが、止まない。全身が毒されていく。心臓が胸が首が締め上げられて、いく。悔恨さえ焼身する、そう、極限の心酔だった。
それからあたしは音楽室に彼を見つけるたび究極のジムノペディを執拗くせがんだ。たぶん四回目くらいの演奏終了直後、彼は零す。
「僕、サティの旋律のダダイスムには、強烈なレーゾンデートルが潜んどるとおもう」
その一音一音がピアノの零す音色に酷く似ていた。あたしは酔いしれていた。
ジムノペディに第四番が隠されているのだとしたら、隠し場所はきっと彼の瞳の奥だ。
「レーゾンデートル」
「レーゾンデートル、存在証明」
「レーゾンデートル。奇麗」
菜種梅雨は明け、音楽室にはおおきな窓硝子から斜めに日が差し込んでいる。彼の髪や瞳は摩り立ての墨よりも街灯のない深夜の空よりも黒く、その日差しに照らされても茶色く変色しないのが不思議だった。
初めて見たの、こんなひと。
きっとこのときはただ二面性の珍妙さ、難解さに当てられていただけ。ソフトクリームの渦みたいに単純、馬鹿げた優越感。甘ったるい。
間も無くして以前からなんとなくノリの合ったケケくんが音楽室を見つける。「ピピこんなとこおったんかあ」ごく自然な笑み。
追えば馴染むのは簡単。いまおもえばララくんは結局、人並みに寂しかったのだ。一度、勘違いに囚われたあたしとケケくんの喧嘩を見兼ねたララくんがその魔法の手を太陽に翳しさまざまないきものに変えたことがある。不器用な影に、わらった。
そうだ、なにも知らない振りの振りして、純真でいられるのなら、それで。
・
舌の回る14。しょうもない喧嘩してはケケくんの家の喫茶店でテーブル囲んで珈琲とにらめっこ。店内泳ぐか細いピアノの音色は単調で、よく聴く演奏とはかけ離れていた。消耗していく。ただ、離れがたい。
「なんか弾いてや」
軌道修正の合図は魔法の言葉唱えて。言い始めたのあたし、よく言うのケケくん。妙にかんがえこんで音楽学ぶあたし、興味無さげにふらつくケケくん。焦って絵はじめるあたし、ケケくんは、珈琲を、一杯。
変わらないで。変わらないで。変わって。
目もくれずピアノの鍵引っ叩くララくんに囚われつづける。
「ほんま、奇麗に弾くなあララは」
「よおわからんくせに」
「わからんけど」
「ララくん女の子にがてなん?」
「なんで」
「隣のクラスの女の子が噂してた」
「にがてゆうか、噂?とかそーいうんが嫌やねん怖いわ。……けど僕さあ、男の子のほうがもっと、こわいねん」
「うっわ零した!ピピ、ちょっ、ハンカチハンカチ!」
「持ってへんし」
「はは!ケケだっさぁ」
「ララくん!金曜おんの珍しいなあ」
「ケケは?」
「あー委員会の呼び出しくらってた」
「ふうん」
三人集まる音楽室、密閉と解放の両立。いまになればぜんぶ夢を見ていただけなんじゃないかとさえおもう。ただ、ピアノ・ソナタ、ノクターン、プレリュード、アンプロンプチュ、どれも彼は色鮮やかに弾き切った。それだけは、確か。
「なんか弾いてや」
「やからなんかってなんやねん」
「俺ショパンしか知らんし」
「じゃーあ、……ノクターンだ」
霧散する。
・
譲れないものが、輪郭宿す17。あたしはララくんと必然のようにながれるようなキスをしたことがあった。帰り道、ケケくんと別れた直後のひんやりとした夕闇のできごと。動物的な好奇心に満ちた黒い瞳がわすれられない。顎あげて、こわがって薄く目を開いて、点滅の街灯を月だって言い聞かせて。
魔法なんて解かないでよ。
翌日、昨日を幻にする奇麗な笑みに付け足された「おはよ」の三音に、滲む視界。
わかっていた。
凍った唇、離れたあとのつまんなそうなあの表情。そんなところにいないであたしの肩抱いてくれたら、しあわせにさせてあげるから。アンタは、そんなことも言えないあたしの手になんて負えない。でもそれよりもなによりも、取り返しなんて、つきっこなかったのだ。
「おはよ」
・
あたしは23になった。
街灯に照らされた林檎を齧る。魔法にかけられた振りを、つづけている。