インブルー
ホワイト・アネモネを押し花にした。進路調査書を出した。空が深くなった。やってきたこの夏も、まだあの日を追い越せずにいる。あの日、青の日。フィンセント・ファン・ゴッホの生み出す貪欲なほどの青を見つけた日。
間違いなくあの瞬間、世界じゅうは青に染め上げられたのだ。
そんな青を、待ってる。
イタい理想論唱えて、待ってる。
「角砂糖みたいに水に浸かるのね」
ねえ、探してたんだよ、随分。涙でもうなにも見えやしないけど。
▽
「角砂糖、ね。初めて言われた。ふつう人魚とか言うもんじゃないの」
「わたし人魚なんて見たことないもの」
がらんどうプールサイド、夏の午前7時、瞞しの青、これが、初めての会話。囀るように話すひとねと曖昧におもったの、鮮明に覚えてる。
学内でも有名な、吊るされたように背筋の伸びた、凍りつくほどうつくしいひと。それで、わたしが目を細めてわらえば、伝染するみたいに目を細めてわらうひと。
コツリ、彼女の形良いであろう足を覆う薄い色の上履き。
「こんにちは」
陽炎に滲み出したその輪郭、新雪のようなその指先。ふと不安が立ち込める。夏は、青は、彼女をころしてしまわないだろうか。
「……こんにちは、リリ、さん。どうして此処に」
「リリでいいわ。わたしの名前、知ってるの?」
「はあ、まあ、有名でしょ」
レーザービームでも打ち出しそうな衒いない瞳が見てられなくて濁った足元に逃げた。「ええ?」と腰掛けながら可笑しそうにわらう彼女、この水面も歩けるんじゃない。
「貴女、名前は?」
「ノノ」
「ふうん、ノノ。似合わなくて素敵ね」
「……は」
「あ、こっち見た。素敵よ、似つかない生きかた。じぶんの意志で生きてるのね」
嗚呼。
嗚呼今にも跳んで消えてしまいそう。わたしがこの高校をえらんだ決め手でもあったセーラーの閉鎖的な青だけが、なんとか彼女を押し留めてる。それだけ。
それから彼女は毎日此処に来た。ある日はひっそりと塩素に酔い、ある日は喉を壊すほど語り合い、またある日は貯金切り崩して集めた西洋画集をはじめてふたりで覗き込んだ。
「わたし、きっと春を好きでいられない。だからせめて夏を好きになりたくて此処を探し当てたの」
彼女は家からわたしの後をつけて此処に辿り着いたことを顔を覆いながら打ち明けた。染まる耳が愛しくて、なにかを抱えた横顔は胸が割れそうにうつくしい。でも、時の移ろううち、会うたび彼女の澄んだ瞳が曇ってくのも透けた肌が青白く褪せてくのも、わたしどこかで気づいてた。
怖かった。
「これでもいろいろさあわかってんだけど、やっぱりあの日に戻れたらっておもう夜もあるね」
怖かった。
「まえに話したともだち、クク、この街出るんだって。とおくとおくに行くんだって。フラフラしてるくせして頑固でね、聞く耳だって持たない、知ったのだってわたしが進路調査書勝手に見ただけ」
怖かった。
「わたしククが意地悪で教えてくれないわけじゃないことくらい知ってる、ただ寂しい、……寂しい」
怖かった。
夏は、青は、貴女をころしてしまわない?
「リリ、ククさんのこと好き?」
「好きよ、なによりも愛おしいの」
バシャン。
そこからどうしたっけな。確か、いつもどおりにこにこ手ぇ振って別れて、確か、リリがよく揶揄った踵の潰れた上履きは不安定で、確か、もう午前7時あのプールサイドに忍び込むことはなくなった。
夢は醒めてしまえばはやいもので、空っぽのふりのふりつづけたまんま、忽ち夏休みに突入し、狙っていた指定校推薦枠になんとか滑り込み、そして春が来た。青のセーラーに胸元の似つかない赤い花が揺らめく。リリがよく不安げに話したあの卒業式が、春が来たのだ。
リリと廊下で擦れ違うこともプールサイドに腰掛けることもないまま。
リリが好きだと言った雪を、好きに、なれぬまま。
欠けた賞状筒の飾られた部屋、ひとの体温みたいな生暖かい温度、寝苦しい春のよるのできごと。とどいた宅急便、目を擦りながらそのしろい四角を受け取るも差出人の名は見つからず、宛名は ノノ。
脳裏を過るあの儚い横顔。
一気に冴え渡った思考回路、勢い良く包みを解いて箱の蓋を開ければ顔を出したのは、白い靴。念入りに編み込まれた、さらりとしたリボン。
そしてその傍、1枚の紙きれに並ぶ、やけに跳ねた文字。
《貴女に青を贈る勇気がなかった これ履いて青い海にでも出掛けてね きっとよく映えるから リリ》
ねえリリ。
青を、世界じゅうのこの青を、リリ、貴女に飲み込んでほしい。
それだけでよかった。
それだけがよかった。
ほんとう。よく映えるね。
ねえ歩こうよ、白い道。靴が溶けて見えないねってわらってよ。
なーんて、ね。