黎明
よく見る夢は無いけれど、忘れられない夢がある。
ふらついた高校卒業間近に見た夢。あの懐かしのグレーのセーラー纏うノノさんが向こうを見ていて、薄い身体翻し、俺だけに完璧に破顔して言うのだ。
「さびしいの?ジジくん」
あの涼やかな目元をこれでもかと弓なりにして、甘ったるくしろい歯覗かせて、ああ作り物みたいに清廉な桃色の頬。
違う。
涼やかな目元は大気に瞬くだけで、僅かに綻ぶ唇の端。ピンクの、遊泳の指先。
「さびしいよ、ずっとひとりだ」
「あのね、ジジくんはいちいちかんがえすぎなのよ。貴方は貴方がおもっているほどひとりじゃないわ」
「嘘つき」
プチンッ
その日は真夜中に目が覚めた。全身にじっとりと汗をかいていた。
▽
かつて中学校の踊り場に飾られていたプールの水面描いた絵はつめたい家に閉じ込めてある。飛び出してしまわないよう糸をかたく結んで。
彷徨っている。
こうしてはじめているのはじぶんで、それでもときどき恐ろしいほどの焦燥に襲われることがあった。俺への興味の無さを隠そうともしない両親。高校時代の浅い級友とは連絡をとっていない。バイト先でだって誰もと挨拶程度で。小中学生時代なんて以ての外。ねえ、俺がいま弾けて消えてもだれも気づかないんじゃない。
彷徨っている。
彷徨っている。
鬱屈した藍が背中にも手にもべったりと張り付いていた。
「気持ち悪い」
「え、どこが?奇麗だけど」
「う...っわあ!!」
東京らしくもないちいさな森のなか、耳元に突如出現したのは見知らぬおんなのこ。「驚かせ甲斐あるねえ」なんて悪戯っ子の瞳してころころわらうその様子に、こちらも臆することなく眉を曲げることができた。
「青いね。青の空気。もしかして東京の空気を描いてるの?」
手が止まる。
「よくわかったね」
「どうして手で?」
「筆で描くよりも好きだから」
「ふうん。真似してみようかな、あたしもこういう奔放で無軌道なの好きだし。貴方はずっと手で描いてきたの?」
「まあ最近はそうだね」
第一印象はちいさな鳥のようなひと。彼女は昨年の春に恋人と上京してきて、この森のちかくの芸術をやる短大に通っているそうだ。囀るようなメゾ・ソプラノ、妙にぽっかりとした発音が耳に残った。「最近って?」「高校からだから、もう6年になる」「せ、成人してたの、ですか」「1週間後に22歳になる」「歳上だったんですネ...」崩れて零れた居心地悪そうな表情がにんげんっぽくて少し落ち着く。敬語なんて落ち着かないから、と言えば無遠慮に外された語尾、あっけらかんとペースを取り戻すその態度は俺の胸を軽くさせた。
押し付けた親指がパレットから掬い上げたのは、混じり気のないシアンだった。
・
高校に上がった途端ぐんぐん伸びる背丈に改善する体調。しろい四角への沈溺の日々、泡みたいに弾け飛ぶ。置いてけぼりくらった稚拙な精神には、ノノさんに会いに行く勇気が無かった。
最後がいつだったのかも定かではないまま、垂れ幕が下りたのだ。重い。
世間体気にした両親に滑り込まされた定員割れの高校は錆び付いていて、やはり通う気になどなれず、イーゼルを立てる場所を探し彷徨う日々。筆を持たなくなったのはその頃からだった。筆先から機械的に生み出されるのは狂いなく張り詰めたお手本のような風景画ばかり。ただ息苦しくて、ただたすかりたくて、筆を滑り落とした。新たに画材買うお金など無い俺にあったのは藻掻くその手だけだった、頼りなさげに伸びる五本指。
それから高校を卒業してもなお、手が千切れそうになりながら描きつづけている。絵に、嵌ったらしかった。
・
貯めたバイト代叩いて夜行バスに揺られ来た東京。そこで出会った彼女は結局その日俺のキャンパスに色ぶち撒ける作業をぼんやりと、けれど決して逸らすことなく見ていた。
「あたしひとが熱中してる姿見るの好きなんだ」
「俺はじぶんが熱中してなきゃ不安で不安で生きた心地がしない」
「不安?どういうふうに」
「海を見たときみたいにこわい」
「へえ」
「知らなくておおきい。この手のひらに乗らない」
粗いコマ撮りのようにひらいた手のなかからはなにもでてこなくて、そこには必死に重ねられた絵の具の端と端がぎゅるりと混色していた。
「そら、そうやわ」
落とすように返された言葉に漸く彼女本来の発音が食み出した。
・
彼女は俺が予約していた民宿まで着いてきたかとおもうと、家主のおばさんと意気投合した挙句ごく自然に夜ごはんの準備を手伝い始めたその姿には脱帽する他なかった。素泊まりだったはずだが、あれよあれよという間に出来上がった三人前のちゃんこ鍋、囲んでしょうもない話を繰り広げる。物語のなかみたいだとつい零れ、真横の彼女に聞き取られたきがして汁を啜って誤魔化した。やさしくてすこし甘ったるいような味がした。
落陽した東京は一匹狼の紺青。
「今更だけど夜ごはん食べてってよかったの、恋人と住んでるんだろ」
「んー、どう、かなあ」
おばさんに強いられて彼女を送る駅までの道、観測史上最小音量の言葉は引っ掛かったが。
「ん?」
「いや、連絡はしてあるんだ。じゃ、今日はどうもありがとう。バイバイ!東京ライフを楽しんで」
「おー、バイバイ」
馬鹿げた放浪も悪くないかもしれない、いつか忘れるだろう名も知らぬおんなのこに大袈裟に手を振った。
・
東京は想像していたよりずっと静かな街で、特に早朝の都会の洗いたての青はなかなか見物だった。
始発でさまざまな都会まで電車乗り継ぎ、傍の公園や森林のなか夕闇まで夢中で色を乗せ、夜を徘徊しがてらコンビニで翌日用の弁当なんかを購入し、深夜おばさんの寝静まった宿にひっそりと帰る、繰り返し。
枕元のキャンパスが塗れて積み重なって塔になる。ぐらついていた。
・
そうして何日か再生しておとずれた夜。寝苦しい夜。あの懐かしのグレーのセーラー纏うノノさんが向こうを見ていた。ああ夢か?夢だろう。随分ひさしぶりじゃないか?あれきりだとおもっていた。ノノさんは薄い身体翻し、俺だけに完璧に破顔して言った。
「さびしいの?ジジくん」
あの涼やかな目元を弓なりに、しろい歯覗かせて、ああ作り物みたいに清廉な。
違う。
涼やかな目元は大気に瞬くだけで、僅かに綻ぶ唇の端。ピンクの、遊泳の指先。
違う。
嘘つきは、俺だ。
振り向かない。
背後から首に手を掛けた。確かに傾けて締め上げてゆく。細い髪の束の隙間、ねえ、鬱血したその頬の清廉に花添わせたいよ。力を込めた。
「ノノさんごめんね、ありがとう、さよなら」
初恋だった。
夜が、明ける。
プチンッ
「...なあ!なあって!!」
飛び込んできたのはおんなのこの顔。知っている顔。そうだ東京の初日、あの日あの森で声を掛けてきた子。東京、そうだここは東京だ。彷徨っていた。徐々に冴えていく思考回路の点滅。その間も目の前の彼女はやけに焦った面持ちで俺の両肩を力強くがくがく揺らしつづけていた。
「...え、何事」
「いやなに澄ました顔してんねん滅茶苦茶泣いとるやんか、え?ふつう?日常?日常なんこれアンタ毎日毎朝こんな泣いてんの?枯れんで」
口を挟む間も無いフィクションのような勢い。呆気にとられ瞬けば、成程睫毛がぐっしょりと水分を含んでいるのがわかった。
「なんか、夢、見て。へんな夢。それで」
目を擦りながら思考を巡らせる。あれ、どんな夢だっけ。
「でもわすれた」
「はあ?あんな泣いてたのに?ふうん、まあいいや、それよりねえこっち来て」
「そもそもなんでここにいんの」
「言ってたでしょ。ちょうど一週間後誕生日って」
連れられたそこは初日に鍋を囲んだ卓袱台のある部屋。並んでいたのは、朝食とはおもえない数の品目の色鮮やかな和食三人前と生クリームの歪に絞られたホールの苺ショートケーキ。おばさんが「あらおはよう、泊まってるはずなのにひさしぶりねえ」と機嫌良さげに蝋燭を立てている。「がんばっちゃった」とこれまた機嫌良さげな横の彼女。出会ったあのときとおなじ、悪戯っ子の瞳して。
ころころっ。
「ハッピー・バースデー!バースデー・ソングうたいたいから名前おしえてよ」
さあ、はじめよう。ここからさ。
無軌道プリズム
彼の青い林檎の青は、絵の具の青だったのだ。割れた鏡に接吻。接吻はまだ読むので精一杯。
▽
頁を繰る。
その頃ララくんは特に寡黙で、口を開いたかとおもえば飛び出す言葉はよく研がれた鋭利な刃。言葉を知らないひとだとおもっていた。感受性に欠けたひとだと。青い林檎だと。
菜種梅雨の放課後がおとずれる。おとずれたのは、あたし。
やっと掴めてきた、火曜日の昼休みと木曜日の放課後はよくいる。空中でまるめた手を開け閉めしている。そうやって音楽室の扉を開いた。ほら、ばあ。
・
じぶんの林檎の赤を鏡でしらべる11、林檎を漢字で書けるように寝る間惜しんで練習した翌日、初めて探検する場所は音楽室に決定。大音量ノック、予想外の登場人物に余裕の微笑み。
「ララくん?ララくんや、クラスメイトの。なにあったん」
「…あ?」
「ひとひとり刺してきたみたいな顔しとる」
はじめて真正面から一直線上に見たその見開かれた目は、おもっていたよりずっと奇麗だった。食い入るように見詰める。
「黙れブス、どっか行けや」
彼はそう吐き捨て、滑らかな動きで椅子の長方形に腰掛ける。花屑が迷子の子どものように泣きじゃくる午後だった。無音の号泣。彼に、重なる。
「行かん」
「は」
「やって刺してきたのに、じぶんも刺されてきたみたいな顔、しとる」
「…………死ねよ」
ポ ー ン
御伽の国に閉じ込もった瞳の沈溺の、はじまり。
その演奏は、まさに狂気と言えた。
肩捩らせ鍵盤叩く、ピアノと一体化したかのようなその姿勢、執拗なほどに研ぎ澄まされた、無軌道なその旋律。凍りつくほど冷たいのに火傷するほど熱い。
引っ掻くように残された余韻。
「……これ、なんて曲」
過度なまでに無機的な言葉が過度なまでに抑揚無く発音される。
世界を見るときのきめ細やかさは語彙量に比例する。これはよく小説を食らっていた当時のあたしの持論。
なのにああこのひとのこの瞳には世界がどれほどきめ細やかに映し込まれているのだろうか。
抱え切れず零れ落ちるアンビバレント、病的なリズムが、止まない。全身が毒されていく。心臓が胸が首が締め上げられて、いく。悔恨さえ焼身する、そう、極限の心酔だった。
それからあたしは音楽室に彼を見つけるたび究極のジムノペディを執拗くせがんだ。たぶん四回目くらいの演奏終了直後、彼は零す。
「僕、サティの旋律のダダイスムには、強烈なレーゾンデートルが潜んどるとおもう」
その一音一音がピアノの零す音色に酷く似ていた。あたしは酔いしれていた。
ジムノペディに第四番が隠されているのだとしたら、隠し場所はきっと彼の瞳の奥だ。
「レーゾンデートル」
「レーゾンデートル、存在証明」
「レーゾンデートル。奇麗」
菜種梅雨は明け、音楽室にはおおきな窓硝子から斜めに日が差し込んでいる。彼の髪や瞳は摩り立ての墨よりも街灯のない深夜の空よりも黒く、その日差しに照らされても茶色く変色しないのが不思議だった。
初めて見たの、こんなひと。
きっとこのときはただ二面性の珍妙さ、難解さに当てられていただけ。ソフトクリームの渦みたいに単純、馬鹿げた優越感。甘ったるい。
間も無くして以前からなんとなくノリの合ったケケくんが音楽室を見つける。「ピピこんなとこおったんかあ」ごく自然な笑み。
追えば馴染むのは簡単。いまおもえばララくんは結局、人並みに寂しかったのだ。一度、勘違いに囚われたあたしとケケくんの喧嘩を見兼ねたララくんがその魔法の手を太陽に翳しさまざまないきものに変えたことがある。不器用な影に、わらった。
そうだ、なにも知らない振りの振りして、純真でいられるのなら、それで。
・
舌の回る14。しょうもない喧嘩してはケケくんの家の喫茶店でテーブル囲んで珈琲とにらめっこ。店内泳ぐか細いピアノの音色は単調で、よく聴く演奏とはかけ離れていた。消耗していく。ただ、離れがたい。
「なんか弾いてや」
軌道修正の合図は魔法の言葉唱えて。言い始めたのあたし、よく言うのケケくん。妙にかんがえこんで音楽学ぶあたし、興味無さげにふらつくケケくん。焦って絵はじめるあたし、ケケくんは、珈琲を、一杯。
変わらないで。変わらないで。変わって。
目もくれずピアノの鍵引っ叩くララくんに囚われつづける。
「ほんま、奇麗に弾くなあララは」
「よおわからんくせに」
「わからんけど」
「ララくん女の子にがてなん?」
「なんで」
「隣のクラスの女の子が噂してた」
「にがてゆうか、噂?とかそーいうんが嫌やねん怖いわ。……けど僕さあ、男の子のほうがもっと、こわいねん」
「うっわ零した!ピピ、ちょっ、ハンカチハンカチ!」
「持ってへんし」
「はは!ケケだっさぁ」
「ララくん!金曜おんの珍しいなあ」
「ケケは?」
「あー委員会の呼び出しくらってた」
「ふうん」
三人集まる音楽室、密閉と解放の両立。いまになればぜんぶ夢を見ていただけなんじゃないかとさえおもう。ただ、ピアノ・ソナタ、ノクターン、プレリュード、アンプロンプチュ、どれも彼は色鮮やかに弾き切った。それだけは、確か。
「なんか弾いてや」
「やからなんかってなんやねん」
「俺ショパンしか知らんし」
「じゃーあ、……ノクターンだ」
霧散する。
・
譲れないものが、輪郭宿す17。あたしはララくんと必然のようにながれるようなキスをしたことがあった。帰り道、ケケくんと別れた直後のひんやりとした夕闇のできごと。動物的な好奇心に満ちた黒い瞳がわすれられない。顎あげて、こわがって薄く目を開いて、点滅の街灯を月だって言い聞かせて。
魔法なんて解かないでよ。
翌日、昨日を幻にする奇麗な笑みに付け足された「おはよ」の三音に、滲む視界。
わかっていた。
凍った唇、離れたあとのつまんなそうなあの表情。そんなところにいないであたしの肩抱いてくれたら、しあわせにさせてあげるから。アンタは、そんなことも言えないあたしの手になんて負えない。でもそれよりもなによりも、取り返しなんて、つきっこなかったのだ。
「おはよ」
・
あたしは23になった。
街灯に照らされた林檎を齧る。魔法にかけられた振りを、つづけている。
白昼夢プリズム
「おまえは、おまえは、奇麗だね」
「僕もそこに連れてって、ください」
「傍にいてください」
あたしたちのあの町のさいごの春は、白昼夢のように、朧げ。まぼろしの吊り橋。ララくんは膝からガラガラと雪崩れ落ちていく。
「連れてくのはララくんだよ」
力の抜いた腕を彼に向けて垂らした。絡められた彼の指先には、名残雪が宿っている。
ほっそりとした雪解け。
▽
あの町にはなんにも無かった。帰りに寄れる距離に位置する凍えた動物園、自己投影の氷柱、喧しいくらいの星、星、星、星。あとは、プリズム。三人でこじつけるように必死で形成した、プリズム。それくらい。
・
「僕、東京行くわ」
ララくんは18になったばかりの夏、むくむく沸き立つ大迫力の入道雲背景に、珍しく張った声でそう放った。
馬鹿みたいなその光景が、いまもあたしの脳裏につよく焼き込まれている。青に侵された沈黙を破ったのはケケくんだった。
「えっ!?引っ越すん!?いつ!?いますぐ!?」
「あほぉ、卒業してからや」
ララくんがころころと機嫌良さげにわらう。
「なんやびびったわ」
「東京でピアノやるねん。ケケは?」
「喫茶店継ぐ言うとるやろ前から」
「えーケケついてきてくれへんの」
「お前こそあほか」
陽炎に目を閉じる。
はい決まり。
「ララくんあたし連れてってーや」
「そーやってお前らすーぐ悪ノリす……」
「……ピピ?」
「絵、したいねん東京で」
そうして、ララくんとあたしは高校を卒業してすぐに東京に吸い込まれていった。ララくんはピアノつづけるために。あたしは芸術の短大入るために。二人で借りたアパートのでこぼこしたしろい塗装が、月に似ていた。
上京、という言葉と月だけが浮上して、あたしたちは、沈む。
沈む。
ぱち。
23。
むかしから日が昇るとすうっと目が覚めた。天井が、高い。横を向くと死んだように眠ったしろい顔が視界を占める。随分懐かしい夢を見ていた。
「なんか弾いてや」
星の瞬く音に掻き消されてしまう音量で唱えた魔法の言葉。濡れた睫毛を見ていると、幽かなアルコールの香り。投げ出された手はかさついている。ながい指をしているだけで、その手はもう、しょげたあたしたちに影絵つくるような、鮮やかに鍵盤操るような、繊細な手ではなかった。
身支度を済ませ、ケケくんのくれた餞別のミルで豆を挽いて珈琲を淹れる。蜂蜜掬ったそのスプーンで珈琲にくるくる渦を描く。一気に飲み干すと不変のスーツのうえに変化のピーコートを羽織って、「いってきます」。
ガチャ、ガチャ。鍵がうまくかからない。狭いアパートにはピアノを置くスペースなんてなくて、彼はよくスタジオに通った。でもいつしかそれも無くなって、この部屋からごついヘッドホンも楽譜も剥がれかけキャンバスも絵の具も消えていた。あたしは短大を卒業して運良く紹介してもらった事務の仕事をして、彼は野良猫みたいな生活を送った。
町を飛び出したあの日、ほんとうはわかっていたし、わかっているふりもしていた。才能も根性も重さもないって。狂った調律。ガチャッ。
クレーターのような窪みに触れる。魔法の言葉、つくったあの頃みたいに。
・
堕落した三人の高校の帰路、あたしは決まって、マウンテンバイクみたいな型の自転車漕ぐケケくんの横、ララくんの自転車の後ろ錆びた荷台で宙ぶらりんでいた。
あたしたちは月にまつわる話とかそういう曖昧な話をよくした。
「今日はスーパームーンらしいなあ」
「あーラジオで言うてたわ」
「僕さあ、ああいうなんとかムーンっていうんどうかおもうで……月は月や」
ペダル漕ぐ音は止まないのに世界が停止していく。芯に触れる話をするときのララくんの声はよく通った。冷えた空気の隙間にするりと入り込む。勢いよく仰け反ればグラグラ。
あたしは口を開いた。唇が乾燥している。
「月が月なんはあるひとには安心で、あるひとには退屈やったんやろ」
ふ、と吐く息も月だ。
それからあたしはララくんの襟足がベイビーブルーに溶けだすのを黙って見詰める。愛しの痛々しい背中。骨ばっている。凭れられる急勾配を、待っている。
せまい町。ひろい空。口の悪いロマンチスト、ピアノ弾きのララくん。家が喫茶店でやさしいケケくん。ときに狂ったように絵を描くあたし、ピピ。あたしたち三人は運命共同体である、そう信じて疑っていなかった小学生。意地張って喧嘩してはケケくんの家の喫茶店で許しあう中学生。見ないふり、気づかないふりのうまくなる高校生。毎年三人で行った夏祭り。ああでも確か最後の年、高三の夏は流れたんだっけ。
「ケケくん、電話なんやったー?」
「おお、ララ風邪やって、夏風邪。夏祭り行かれへんって」
「えっ」
「お母さんが大袈裟にしてうるさいねんて。アンタふたりにうつしたらどうするんっ、てな」
口調はおばさんのちゃきちゃきとしたそれなのに、声色にケケくんの穏やかさがそろりと覗いていた。くふっ、思わず零れた笑み。ケケくんは安心したように口元緩ませて。
「…やからさー今年は」
「今年は諦めよっか!お見舞い行こうや、ララくんみかんゼリー好きやったやんなあ」
夏の纏わりつく空気を切り分けて先々と歩きだす。そう、カンは冴えていた。腕を、引かれる。
「なあ、俺らずっと、ずうっと三人なんかな」
瞬間、世界の停止。伴う沈黙に張られたピアノ線。
「んー?」
揺らめいていた。
「なんも、ない」
・
曖昧。揺蕩う。遊泳。きもちいね、ころさなきゃ、ならないね。
・
ぼうっと意識飛ばしながら夕飯の用意を済ませてしまえるくらいにはあたしは23だった。ガチャリという音で裂けていく。
「ララくん?」
「あ、あー」
「ララくんおかえり。ごはんできてるけど食べる?」
「んー、いい」
掠れた声と交わらない目線。ぞくっとするほど薄い色の膜があった。繊細で、鋭利だったあの頃の彼が輪郭から滲んで食み出している。
だれ?
「あたし、この家出てくね」
潮時だ。
彼は青かった。海のようでも空のようでもなく、かつての猛毒の緑青に似ている。あたしはララくんがどうしようともどうしようもなく好きだった。それでも潮時だ。あたしたち三人のプリズムには、潮時だった。
「なんで」
ひさびさに目が合った。立ち込めた靄が見るたび濃くなって必死に目を凝らしていた。でももう。
「あたし、奇麗なんかじゃないから」
「嘘」
「嘘ちゃうよ」
「そうやな、でもほんとうでもない」
「ララくん」
歪んだ物差し揺らすのもう、やめた。
「だってララくんあたしのこと好きじゃないでしょ」
「好きだよ」
奇麗な、へんな声。ねえ、あの頃、音楽室でピアノ奏でてラブソング口ずさむあの声はどこへやったんだい。胸がちりぢりになって焼けて、すこし、わらえる。
「ねえ、潮時なんだよ」
「ピピ」
「ララくんさ、一度でもあたしのこと想ってピアノ弾いたことある?」
詰まった喉。
さあ。
「見ない振りばっか上手くなってごめん、それしか上手くなくてごめん。ララくんの目、あたしを見るときも他のおんなのこ見るときもいつも靄がかってる」
「…ピピ」
「ララくんが好きなのは」
月の、破裂だ。
「ケケくん」
見開かれた澄み切った目。
拉げた月が、浮かんでいる。ぽっかり。
「帰ろう、あの町に」
泣けない23のあたしたちは、下手くそに微笑んだ。微睡みの春が、すぐそこまで来ていた。
回り灯篭
雪の降る動物園に行ったことがある。
ふたりで抜け出した狭苦しい町、収縮してく。ピアスホール空いた切符握り締め乗り込んだそこは、がたがた蠢く動物の体内のようだった。
当時、日の射す時間帯に隣の尖った耳した中学生の彼の姿を認識したのは初めてだったが、幽霊のように青白い肌が一層強調された程度だった。
▽
「それ、おもしろい?」
「……」
「それ、おもしろい?若しくは、星、好き?」
「……」
「それ、おもしろい?若しくは、星、好き?若しくは、……線香花火、しない?」
「……......する」
本を閉じる。新月の冬の夜、壊れた遊具のある公園で声を掛けてきた彼は、疎ら星空のようにどっぷり沈んだ瞳をしていた。
「いつもここにいんの、見てた。お母さんが心配すんじゃねえの」
「いない。死んだの。ママもパパも」
お星様にはなれなかったみたい。だってなっていたらわかるから。この星の数から見つけることくらい、できるはずだから。そう零せば彼は、目を見開くことも手を握ることも眉を下げることもせずにゆっくりと瞬いた。奇麗。
彼がいまにも折れてしまいそうな蝋燭を立てたかとおもえば遠い国の船描かれたラベルの缶マッチまでもを取り出すので、つい口を開いてしまう。
「線香花火って着火してから段階に名前がついてんだって」
「聞かせて」
手渡された線香花火を彼の動作真似るようにして炎に翳す。柄震えだした、着火合図。
「……蕾...牡丹...松葉...柳...散り菊」
・わたしは、そこに、ふたつの狂い咲きの花の生涯を、見たのだ。確かに、見たのだ。
つぎの花は、ふたりで唱えた。
「蕾...牡丹...松葉...柳...散り菊...」
「蕾...牡丹...松葉...柳...散り菊......」
まるで世界の終わりで、可笑しくなって顔を見合わせてわらった。羽根の生えた雁字搦めの彼の顔が、花に照らされている。悪魔のように整った顔つきをしていた。
それから彼とは毎晩会った。リリ、と彼に名前を呼ばれるのがたまらなく好きだった。鈴が鳴るのだ。彼のいない中学校でも親戚のおばさんの家でもなんとか上手くやろうとしだしたのがこの時期。破滅願望は絶えずあったけれど、夜は彼がいっしょに沈んでくれたから。
読んでいた本に登場した麒麟の話が弾めば、彼は明日動物園に行こう、折角だから遠く遠くに行こう、と言う。そういうことひとつひとつがほんとうは泣きそうにうれしかった。
・
乗り継いだ先無人駅、辿り着いた看板の錆びたその動物園はひっそりと凍てついていた。あてどなく園内ふたり歩いていると、ひら。ひらひらひら。雪が、降りはじめた。それが此処のあるべき姿のようにすら錯覚する、そんな雪だった。
「冬のモンシロチョウみたいに降るね」
「ひらひらしてるね」
ひらひら。ひらひら。
麒麟を見つける。おなじ目線となれる場所に立ち、ふたりで焼くように見詰める。はじめて至近距離で見るその目は太陽が消滅したように黒い。作り出した柄。丸まった角が生えている。たとえ目線のおなじ此処にいても、他の誰にも奪わせず長い首揺らして歩行するそれとおなじ世界を見ることはない。
「泣いてんの?」
随分長居した。空の赤い帰り道、無人駅のホームで彼は珍しく定規を這うような直線的な声でそう言った。
「泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてない」
「…」
「…麒麟がいたね」
「…麒麟がいたよ」
電車が来るまででいいよ。彼のはじめて聞くくらいやさしい声に、泣いてもいないのに喉がしくしく痛んだ。
「死ねって言ったの」
「…」
「今朝クラスメートがうちに遊びに来たの、近く通ったからって、わたし、中学でやっと喋れるひとができてきて、浮かれてて、わたし……いつもクラスでするみたいにふざけて、悪ふざけで、通用する相手なの知ってて、そんときだってゲラゲラわらってお前こそ死ねなんて言い返してくるし!……おばさんが、怒った」「おばさん、理解できない怒り方するの、こわいの、だから最近ずっといい子でやってたのに、『亡くなったお母さんとお父さんの気持ちを考えられないの』『最低ね、最低のひとね、お母さんとお父さんが可哀想、可哀想可哀想』って。クラスメートにも怒った。クラスメートは、飛び出して行っちゃった」「ぜんぶうまく、うまくやってたのに、やってたつもりなのに」
ククの冷たい指先が呼気のしろいわたしの頬をモンシロチョウのように滑る。
「泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてない」
「……泣いてよ」
ごく自然に抱き締められる。彼は、ほんとうに冷たい身体をしたひとだった。夏のみぞれみたいなひとだった。
「俺がぜんぶ知ってること、知ってて」
「ぜんぶ知っててくれるの」
「おしえて」
「麒麟にはなれないことも?」
「麒麟にはなれないことも」
「冬の線香花火にも、冬のモンシロチョウにも、ククにも、何者にも、なれないことも?」
「うん」
「そっか」
背に手を回す。そうすると案外あったかくて酷く安心して、涙が、でた。花や蝶をも起こさぬよう、静かに。
やってきた電車に、乗り込んだ。繋いだ手から伝わる温度と、どこまでいけるだろうか。
赤とクレテック
世の中不思議なもんでどうやら月明かりという言葉が未だ不滅らしい、月が明るいらしい、月を数値化するらしい、明度数値らしい、月を模そうと球に行き着いたらしい、指先に宿る太陽系蹴飛ばしても構わないらしい、グシャリ。
その瞳にインク一粒垂らすためならわたしはほんとうに錆びて死んでしまってもよかったのだ。
▽
宙漂う太陽系、澄ましたまんま踊り続けた。踊って踊って踊って踊って踊り続けた。
わたしは白という色をよくしらない。無垢に価値を見いだせない。惰性を塗り固めるようなクラシック・バレエ、潮時だ、濁ったピンクの練習着もレイトショーの安っぽい台詞も背を押した。夜は羽がひしゃげた。
真っ只中、おなじ劇団の友人に連れられ、見納めのような気で観た公演。木製の香り、酸素揺ら揺ら、よくしらない長ったらしい名前した演目。
そこで、見たのだ。暗い黒を。ほんとうの明るさを手にした白を。有明月浮かぶ夜を。
とどくだろうか。
あの夜から踊り続けたままだ。
パチパチ。
「赤い靴の呪い?」
目を見開く。瞬きをして態とらしいくらいに伏し目がちに、鬱陶しいくらいにゆっくりと振り返る。
ちいさな劇場の舞台から降りて直ぐだった。自我、揺らめきがやっとの思いでわたしへ帰還。木製のそこには彼の金属質な声が馴染まない。
「クク、くん」
纏わりつくしとしとした梅雨、首筋に貼り付く髪にハードジェル押し込んだシニヨン、錆びかけのインダストリアル・ピアス、彼は、そういうのぜんぶ引き連れて一年と三ヶ月振りに姿を現したのだった。それから彼とは週に一度、会うか会わないか。レッスン後の曖昧なカフェテラス。食事制限をするわたしと食への興味の薄い彼は、決まってストレートの珈琲を一杯。
今夜も全身を映し出す鏡から抜け出し、狭苦しいバーを出たそこに彼を見つけ、呪われていく。
「指、冷た。中入ってていいのに」
「でも雨が降ってるから」
パチパチ。気づけばその破裂音を、待ってる。執拗いだけのわたしみたいな女に、なんで。それだけが聞けなくて聞いた銘柄。ガラムの赤。火を着けて吸うと丁子が弾けて音が鳴るんだ、そう慣れた手つきで言葉並べる彼をじいっと見詰めた。
パチパチ。
焼くように、じい、っと。
「線香花火ね」
「そんな綺麗なもんじゃないよ」
パチパチ。パチパチパチパチパチパチ。散る火花。吐き気のする酷く甘ったるい副流煙。
「わたし、死因、これがいい」
「は」
「これがいい。この副流煙に侵されて死にたい」
パチ。
幽霊のように冷たい手に引き寄せられて、短く苦しい口付け。噎せ返り溢れ出したのは嗚呼確か寂寥感、きっとひとはこれをシアワセと呼ぶのね。目を瞑る。確かそういうものだから。
ただ、地面から燻る紫煙も、取り囲む黒を浮かぶ月を少しも明るくはしてくれなかった。
叶えてくれないの知ってる。知ってるから、夢くらい見せてよ。
とどくだろうか。
買い替えたばかりのとびきりのトゥシューズだけがいつまでも明るく透けている。ねえほら、ガラムの赤が滲み出した。
黒とエトワール
レイトショーの終演、ステップ踏む帰り道のスパンコール纏う夜は羽根が生えるから背が痛んだ。
此処は明るい黒。あの決して此処ではない世界を、此処に溶かし込む。扉は開けない、此処は確か物音を嫌うから。
▽
スクリーンのなかの彼らは恋だ愛だを唱えたが。
わたしがわたしでしかない薄い色の時間帯、地面に風化した羽根踏み付け、冷えた瞼の裏側揺らぐ残像に息を吐く。よくひかる銀河系に手を振った。朝が、焼ける。
はじまりは花が咲いて摘まれるように単純、その日は月がしろくて、音楽で移動教室だった。途中の狭苦しい、踊り場。ひっそりとしたポワント、静かに降りるプリーツスカートのグレーの行方は。
集うすこしのにんげん。すぐ逸らすつもりで向けた視線。
・
青という色の真髄。
「綺麗」
壊れたピルエットの、行方は。
目を見開く。妙に輪郭のはっきりした金属質なその声、その僅か一言に心臓は焼け、喧騒の一切は止み、弾かれたように勢い良く振り返る。人工的に色素の抜かれたそのシルバー・ブロンドの隙間、射るような視線が額縁のなかの青に注がれている。
瞳の黒は、明るい。
雑踏、その引力に抗えずに暫く立ち尽くした。この感覚を、わたしは知っていた。音楽室独特の塞がれた空間、椅子に腰掛けながら矢張り立ち尽くしていた。
たぶん焼けた朝、ガブリエル・フォーレ夜想いのエレジー。迫る旋律、グレーが不安げに脚に張り付く。ごめんね。
仕組まれたように均等におなじ濃度だったクラスメイト、すこしずつ着実に生まれ変わる対照をじいっと見詰めた。浮世離れしたうつくしさを持つひとだった。ククくん。幽霊のように白く尖ったその耳を突き刺すインダストリアル・ピアス。わたしは、あれに成りたくて為りたくてなりたくて堪らなかった。
「ククくんおはよう」
「...どーも、おはよう」
「ククくんおはよう、桜に緑が馴染んだね」
「おはよう。そう。俺は雨でも降ればいいとおもうけど」
「じきに嫌でも降るでしょう」
「ククくんおはよう」
「おはようレレさん」
警報が鳴ってた。彼はなにをかんがえているのかわからない。その瞳はいつもひとつ向こうの惑星を見ていて、きっと此処はセピアだ。
わたしは此処にしかいられないのに。
用も無く隣に立てる関係になるまで、時間はそうかからなかった。彼は纏う空気こそ独特だったが、声を掛ければいつも言葉を小気味好く放ったから。
そうだ、彼はにんげんを此処を地球を宇宙を呪わない。
「つぎはこの色ね」
「傷んでやべぇっつってんだろ」
「わたしはもっとシルバーが良いの、雪と見間違うくらい」
「だーかーら」
「傷むって?なにを今更...ああ、初めまして。レレ、さん?」
にんげんを、呪わない。
踏切警報機、目を凝らせば傍に咲く小花が神経質に揺れている。摘めば枯れてしまう、摘まなくても枯れてしまう。
追い風が吹いていたとかそんな程度、理由はいくらでもおもいついた。引力に引き摺られる振りの振り、おなじ高校に進学してまで彼を追った。
「レレさん、高校おなじだったんだ」
彼はわらった。白昼夢のような高校三年間で、悪魔みたいに、一度きり。
レイトショーを観る回数が減った。爪先の痛みが引いていく。羽根は舞う。警報が、鳴り止まない。彼はきっと、消えてしまう。なにも言わず、鮮やかすぎる青に解き放たれどこか遠い世界へ。
船を漕ぐ。
船を漕ぐ。
船を漕ぐ。
ねえ、此処はどこ。もしかして、あの夜の明るい黒から抜け出せていないの。
船を漕ぐ。
・
パチンッ。
「この街を、でた?」
波打つポワント、グレーごと、青まで崩れ落ちた。ごっそりと奪われたような、焼けるような五年間、胸元の赤い祝福の花すら知らない。
あれから一年と二ヶ月。つめたい雪は融け、あの頃より夜深い終演時間の半券と明るい黒だけが、積もっていた。
《じきに梅雨です、会えませんか》
春の夜
歩く。
その薄く色づいた砂浜を、歩く。
「星の砂って、有孔虫の殻なんだって」
永遠性を忌むノノが、どこまでもつづいているみたいに、波に攫われてしまいそうになりながら、歩く。
「まあ、実際に砂であるよりかはロマンあるわね」
ほら、ねえ、視界が、よるが、藍が、星が、きみが、滲みだした。曖昧に、くっきりとした輪郭で、融けだした。
春の夜の薄曇りであろうその空は、見上げるのさえ困難だ。
▽
たとえば俺は風船ひとつ貰えば空に飛ばしてみたいなと言いながら手に紐をぐるぐる巻いたし、彼女は買い込んだありったけの風船を秋晴れに天高く飛ばした。
彼女はシャッターを切ることもなく、細っこい首の折れそうなままその光景をどこまでも直線的に見詰めていた。
あれからノノは度々病室にやって来たが、じつのところ俺はノノのことをあまりよく知らない。ノノは無口ではなかったが、自分のことを進んで話すというわけでもなかった。青という色と西洋画が好きで、無色と聞いてしろいろを思い浮かべるひとが嫌い。それだけ。
珍しく母親がここを訪れた、翌日の出来事。縹の空をぼうっと眺めていると視界の隅に昨日置いていったらしいトートバッグがポツリ。白と呼ばれるその色、なぜかこの病室に馴染まない。
その鞄の傍にしゃがみこむ誰か。思わず五十音には含まれない一音が零れ落ち、誰か、ノノは振り向くこともせず「魂抜けてたね、おかえりい」と声を伸ばした。冬の風鈴みたいに、夏の落ち葉みたいに。視線は、手元に釘付け。釣られて目を遣れば、そこには。
「ねえなにこれ」
「…………ラッキースター。折り紙でつくった星」
ひからないちいさな星、不安定な温度のパステルカラー、天井に透かせるその仕草。
「なにジジくん、絵描けるうえに折り紙までできんの?」
「どっちもできねえよ、それは貰った。あーーーー、そのどっかにくっついてきたか。もう捨てたとおもってた」
じ、と焼くようでもない視線がひとつ。
「貰ったって、誰に?」
「クラスメイト」
「クラスメイト」
「...お見舞い、だって。昨年、クラスメイトみんながひとつずつつくって、名前と一言書いてあって、瓶に詰めて持ってきたんだ。薄いピンクとか、みずいろとか、クリーム色とか、ぎゅうぎゅう詰まって、くるしかった。まだ春だった、まだ、名前だって知らなくて、なんて、ぜんぜん登校してねえんだから当たり前だけど、......、なに」
「ジジくん」
「なに」
「ジジくん、ジジくん、ジジくん」
「なんだよ」
「ジジくんは、星が、きらい?」
「きらいじゃない」
「すき?」
「きらい」
嫌味なほど陽に透けたその声は、震えたその指先は、触れた先からつたわるその温度は、すこしも嫌じゃなかった。
嫌なんかじゃ、なかった。
「ねえ、抜け出そうよ」
春の夜とは、相反の共存である。
病院の近くに砂浜のある海岸があった。確か、海よりも空がひろかったきがするから、俯いたまま海鳴りを聞く。
「なんで、こんなこと」
「星が綺麗な夜だから」
「は、星が綺麗なのは冬だよ」
「どうして?」
「乾燥してて空気が澄んでるから、あと、暗いから」
「せかいが?」
「せかいが」
微笑み、しろで塗り潰すみたいにしずかだ。
余韻にさえ魅入っているうち、砂浜を歩き始めた彼女を慌てて追った。足跡がちいさい。今夜みたいに曖昧な他愛ない会話、すこしずつ結んだ。
「ねえ、わたしね、星が好きよ」
「...どうして?」
「ひかるから」
ぴたり、砂が足を飲む。生暖かい風に乗る海の匂いが鼻先を掠めて、つんとする。
「綺麗に、ひかるから」
「...そーかな」
「見えない日もあるね。でもひかってないわけじゃないし、今日は快晴じゃないけど、雲が薄いから、きっとよく見えるよ」
「...星、綺麗?」
「今夜はまだ見てない。ジジくんと一緒に見上げようとおもって。でもね、今日もきっと綺麗だから」
「......ほんとう?」
「ほんとう。ね、手ぇ繋ごう、3秒数えるから一緒に見上げよう、...さん、にい、いち...」
だれかの言うこと、理屈のわからないこと、繋いだ手、一瞬でも信じたのなんて、いつぶりだろうね。
星空見上げるなんて、いつぶりだろう、ね。
「...ほんとだ、.........きれい、だ」
ザザ、ン。
「...あは、うそ、そんな泣いて、わかんないでしょ」
「うそじゃない」
「ほんとう?」
「......ほんとう」
砕けた視界、春の夜、水平線上、星を取り巻くその群青に、きみを見たきがした。
「ほんとうに、きれい」
帰りはすこし歩いて、彼女がポケットから徐ろに取り出した暗くてよく見えないへんな色をした星形のなにかを奪い取り、潰れてしまいそうなほどつよく握り締めて、勢いよく海の彼方に飛ばした。
星は沈み、朝がやってくる。
あしたの朝焼けが綺麗なことを、俺はもう知っている。