赤とクレテック

世の中不思議なもんでどうやら月明かりという言葉が未だ不滅らしい、月が明るいらしい、月を数値化するらしい、明度数値らしい、月を模そうと球に行き着いたらしい、指先に宿る太陽系蹴飛ばしても構わないらしい、グシャリ。

その瞳にインク一粒垂らすためならわたしはほんとうに錆びて死んでしまってもよかったのだ。



宙漂う太陽系、澄ましたまんま踊り続けた。踊って踊って踊って踊って踊り続けた。

わたしは白という色をよくしらない。無垢に価値を見いだせない。惰性を塗り固めるようなクラシック・バレエ、潮時だ、濁ったピンクの練習着もレイトショーの安っぽい台詞も背を押した。夜は羽がひしゃげた。

真っ只中、おなじ劇団の友人に連れられ、見納めのような気で観た公演。木製の香り、酸素揺ら揺ら、よくしらない長ったらしい名前した演目。

そこで、見たのだ。暗い黒を。ほんとうの明るさを手にした白を。有明月浮かぶ夜を。

とどくだろうか。

あの夜から踊り続けたままだ。


パチパチ。

「赤い靴の呪い?」

目を見開く。瞬きをして態とらしいくらいに伏し目がちに、鬱陶しいくらいにゆっくりと振り返る。

ちいさな劇場の舞台から降りて直ぐだった。自我、揺らめきがやっとの思いでわたしへ帰還。木製のそこには彼の金属質な声が馴染まない。

「クク、くん」


纏わりつくしとしとした梅雨、首筋に貼り付く髪にハードジェル押し込んだシニヨン、錆びかけのインダストリアル・ピアス、彼は、そういうのぜんぶ引き連れて一年と三ヶ月振りに姿を現したのだった。それから彼とは週に一度、会うか会わないか。レッスン後の曖昧なカフェテラス。食事制限をするわたしと食への興味の薄い彼は、決まってストレートの珈琲を一杯。

今夜も全身を映し出す鏡から抜け出し、狭苦しいバーを出たそこに彼を見つけ、呪われていく。

「指、冷た。中入ってていいのに」

「でも雨が降ってるから」

パチパチ。気づけばその破裂音を、待ってる。執拗いだけのわたしみたいな女に、なんで。それだけが聞けなくて聞いた銘柄。ガラムの赤。火を着けて吸うと丁子が弾けて音が鳴るんだ、そう慣れた手つきで言葉並べる彼をじいっと見詰めた。

パチパチ。

焼くように、じい、っと。

「線香花火ね」

「そんな綺麗なもんじゃないよ」

パチパチ。パチパチパチパチパチパチ。散る火花。吐き気のする酷く甘ったるい副流煙

「わたし、死因、これがいい」

「は」

「これがいい。この副流煙に侵されて死にたい」

パチ。

幽霊のように冷たい手に引き寄せられて、短く苦しい口付け。噎せ返り溢れ出したのは嗚呼確か寂寥感、きっとひとはこれをシアワセと呼ぶのね。目を瞑る。確かそういうものだから。

ただ、地面から燻る紫煙も、取り囲む黒を浮かぶ月を少しも明るくはしてくれなかった。

叶えてくれないの知ってる。知ってるから、夢くらい見せてよ。

とどくだろうか。


買い替えたばかりのとびきりのトゥシューズだけがいつまでも明るく透けている。ねえほら、ガラムの赤が滲み出した。