溶存酸素量

彼女はよくここにフラリと現れた。

よく見たペンキに浸したような手土産は無かったから、換気せずに済んだ。

ただ、いつも踊るような足取りの彼女に、重いグレーのセーラーは似合わない。



いまでもよく覚えてる、どうにも病弱で、走るのがにがてで、しゃきしゃきとした野菜が嫌いだったあの頃。中学二年生。いつも身体のどこかしら不安定で、入退院繰り返す毎日、すこしずつ、そして確実に白に塗れた四角に溺れていく。

狭くてしろいだけのそこにある日現れたのは、青ざめたレザーのトートバッグ提げるおんなのこ。シャッターを切るようにゆっくりと瞬けば、ノノとだけ名乗る彼女にああ初めて見たわけではないかもと薄らおもった。

「ほんとうにしろい」

彼女は瞳に宿すそのふしぎな色をくるくる廻して、森のなかに迷い込んでしまう。決して俯かないから、天を見上げると伏し目がちになった。窓から零れるひかりさえ跳ねるほどの日であった。

一通り見て回り満足したらしい彼女は漸くベッドの横の丸椅子に足を組んで座る。

「どうもジジくん。はい、担任に頼まれたプリントと、伝言、体調はどうデスカ期末テストは来れそうデスカ、そしてこれはわたしが貯めに貯めた貯金を切り崩しついぞ手に入れた、西洋絵画集たちです」

どどどどど、仄かに着色した頼まれたプリントとやらを弾くようにオーバーテーブルに積まれたのは、眩暈のする極彩色。襲う点滅に耐えきれず彼女のほうへ目を逸らすも視界に大差は無く思わず顔が引き攣った。

「単刀直入に言いますジジくん、わたし貴方の絵に惚れたの、貴方とお話をさせてほしい」


放任主義と言えば聞こえは良いが、両親は身体のよわい俺を角張ったこの個室の四角に入れたっきり、医者に呼ばれない限りここに来ることは無かった。

当然学校は休みがち。あそこは水のなかより酸素が薄いから。身体のせいでもともと通える日はすくなかったが、友だちづくりが不得手で頭だって良くない、そんな俺が通いたいとおもうはずもなかった。

ただ、美術のせんせいに流されるまま一度だけしたキャンパスに絵具を乗せるその作業は、いつまで経っても飽きなかった。

それが薫る程度に異常で、特別で、鮮やかなことだと気づいた日、窓辺に底の丸まったガラスの筆立てを置いた。いまも傍で蹲ったまま。

普遍的な身の上話を目の前の彼女があんまり熱心に聞くもんだから、代わりに俺がわらってみせた。

「……学校の踊り場に飾られてるでしょジジくんの油絵、迸るあの水面、本物よりさらに純真だった。あれを見たときわたし、この作者がどんな世界に生きているのか気になったの」

「世界はひとつだ」

「ほら、やっぱりちがう世界に生きてる」

多角形のクリスタル・ガラスの視界の端の点滅。それは病的なまでのオマージュ。

先週、数ヶ月ぶり、どうしてもと用事をこじつける担任に腕を引かれて行った学校、いつの間にか飾られていたらしい俺の油絵をわらう同級生の声、ぼんやり聞いた。

げらげらげら。

げらげら。

げらげらげらげらげらげらげら。


ああ、あれ、いまここは?

「ジジくん、水面を見上げたことはある?」

パチンッ。

「...水に潜ったことなんて無い。ああでも夢のなかでなら」

「夢」

「くるしくてくるしくて死をかんじたそのときふと目を開けてしまって、そのときの景色を目の当たりにしたときの感情を色に喩えたんだ」

中身が無いから言葉は浮かぶ。彼女はそれを黙って見詰めた。

えーーーーと、それで、それで、おれは、

「それでやっと息ができた?」

ぱっ、と顔を上げる。じぶんの思考が彼女の声を借りて現れたようだった。

彼女は微睡む。

「だからあれほど強烈なのね、熱い青をしてた。ねえ、あとでそれ見てみて、綺麗だから」

画集を指す指はピンクだ。

目を見開き停止したままの俺に彼女は、わたしこれはひとりで見たいの、とつんとして爪先を反らしてから徐ろに立ち上がる。重いグレー、似つかない翻りのプリーツスカート。

「じゃあねジジくん」

息をするようにそう言って彼女はピンク泳がせて冷たい扉の向こうへ吸い込まれてしまう。

両親や薄い色の大人、物珍しげなカオした同級生が来たあとのような倦怠感は無く、それはまるで淡い海に背から沈むようで。

そして呪いのように繰り返された。

金縛りから抜け出して操られた手つきで窓を開ければ音が鳴る。瞼の隙間から窓枠の隙間の向こうを見下ろした。澄んだ青を提げるちいさな少女は振り向かない。

唯一残された山積みの画集はどれもどこかの惑星からやってきたかのように艶やかでつるりとしていた。宇宙だ。水の無い水中のような場所。こうやっていまもこの地球でだれかが宇宙を抱えて生きてんだろうか。

天を見上げる。酸素を吸い込む。窓際で透明が揺れている。


「ノノ、さん」


どうか、気づかないで。

インブルー

ホワイト・アネモネを押し花にした。進路調査書を出した。空が深くなった。やってきたこの夏も、まだあの日を追い越せずにいる。あの日、青の日。フィンセント・ファン・ゴッホの生み出す貪欲なほどの青を見つけた日。

間違いなくあの瞬間、世界じゅうは青に染め上げられたのだ。

そんな青を、待ってる。

イタい理想論唱えて、待ってる。

「角砂糖みたいに水に浸かるのね」

ねえ、探してたんだよ、随分。涙でもうなにも見えやしないけど。



「角砂糖、ね。初めて言われた。ふつう人魚とか言うもんじゃないの」

「わたし人魚なんて見たことないもの」

がらんどうプールサイド、夏の午前7時、瞞しの青、これが、初めての会話。囀るように話すひとねと曖昧におもったの、鮮明に覚えてる。

学内でも有名な、吊るされたように背筋の伸びた、凍りつくほどうつくしいひと。それで、わたしが目を細めてわらえば、伝染するみたいに目を細めてわらうひと。

コツリ、彼女の形良いであろう足を覆う薄い色の上履き。

「こんにちは」

陽炎に滲み出したその輪郭、新雪のようなその指先。ふと不安が立ち込める。夏は、青は、彼女をころしてしまわないだろうか。

「……こんにちは、リリ、さん。どうして此処に」

「リリでいいわ。わたしの名前、知ってるの?」

「はあ、まあ、有名でしょ」

レーザービームでも打ち出しそうな衒いない瞳が見てられなくて濁った足元に逃げた。「ええ?」と腰掛けながら可笑しそうにわらう彼女、この水面も歩けるんじゃない。

「貴女、名前は?」

「ノノ」

「ふうん、ノノ。似合わなくて素敵ね」

「……は」

「あ、こっち見た。素敵よ、似つかない生きかた。じぶんの意志で生きてるのね」

嗚呼。

嗚呼今にも跳んで消えてしまいそう。わたしがこの高校をえらんだ決め手でもあったセーラーの閉鎖的な青だけが、なんとか彼女を押し留めてる。それだけ。

それから彼女は毎日此処に来た。ある日はひっそりと塩素に酔い、ある日は喉を壊すほど語り合い、またある日は貯金切り崩して集めた西洋画集をはじめてふたりで覗き込んだ。

「わたし、きっと春を好きでいられない。だからせめて夏を好きになりたくて此処を探し当てたの」

彼女は家からわたしの後をつけて此処に辿り着いたことを顔を覆いながら打ち明けた。染まる耳が愛しくて、なにかを抱えた横顔は胸が割れそうにうつくしい。でも、時の移ろううち、会うたび彼女の澄んだ瞳が曇ってくのも透けた肌が青白く褪せてくのも、わたしどこかで気づいてた。

怖かった。

「これでもいろいろさあわかってんだけど、やっぱりあの日に戻れたらっておもう夜もあるね」

怖かった。

「まえに話したともだち、クク、この街出るんだって。とおくとおくに行くんだって。フラフラしてるくせして頑固でね、聞く耳だって持たない、知ったのだってわたしが進路調査書勝手に見ただけ」

怖かった。

「わたしククが意地悪で教えてくれないわけじゃないことくらい知ってる、ただ寂しい、……寂しい」

怖かった。

夏は、青は、貴女をころしてしまわない?

「リリ、ククさんのこと好き?」

「好きよ、なによりも愛おしいの」

バシャン。

そこからどうしたっけな。確か、いつもどおりにこにこ手ぇ振って別れて、確か、リリがよく揶揄った踵の潰れた上履きは不安定で、確か、もう午前7時あのプールサイドに忍び込むことはなくなった。

夢は醒めてしまえばはやいもので、空っぽのふりのふりつづけたまんま、忽ち夏休みに突入し、狙っていた指定校推薦枠になんとか滑り込み、そして春が来た。青のセーラーに胸元の似つかない赤い花が揺らめく。リリがよく不安げに話したあの卒業式が、春が来たのだ。

リリと廊下で擦れ違うこともプールサイドに腰掛けることもないまま。

リリが好きだと言った雪を、好きに、なれぬまま。


欠けた賞状筒の飾られた部屋、ひとの体温みたいな生暖かい温度、寝苦しい春のよるのできごと。とどいた宅急便、目を擦りながらそのしろい四角を受け取るも差出人の名は見つからず、宛名は ノノ。

脳裏を過るあの儚い横顔。

一気に冴え渡った思考回路、勢い良く包みを解いて箱の蓋を開ければ顔を出したのは、白い靴。念入りに編み込まれた、さらりとしたリボン。

そしてその傍、1枚の紙きれに並ぶ、やけに跳ねた文字。

《貴女に青を贈る勇気がなかった これ履いて青い海にでも出掛けてね きっとよく映えるから リリ》

ねえリリ。

青を、世界じゅうのこの青を、リリ、貴女に飲み込んでほしい。

それだけでよかった。

それだけがよかった。

ほんとう。よく映えるね。

ねえ歩こうよ、白い道。靴が溶けて見えないねってわらってよ。

なーんて、ね。

シークレットピアス

「閉じそうなピアス穴が埋まりきらないうちに目ぇ合っちゃいましたってんならまだ言い訳もきいたのにねえ」

悪魔のように整ったカオをした目の前の男は微笑む。この忌々しい背を引き裂いた、忌々しい羽根を透かせて。

「おっせーーーーよ」


シークレットピアスの透明、跳ね上がる日曜の午後一時。グラスすら冷や汗をかくふうでもないカラリとした晴天、降水確率10パーセント。

狭苦しいこの町で再会を果たしてからというもの月に一度の頻度で会うようになり、ついに片手じゃ足りなくなった。切れ長の目元にはいつも仄暗い隈があった。

クク。

夜色のクク。

幽霊のように白い肌がよく映えるよ。ああ綺麗ね、自然体で、違和感がなくて、うん、馴染んでる。

ただ、詰まらない。どーしよーもなく、詰まらない。

似つかわしく金属質な愛しの声が店内に通る。そのたび、ぴんと張ったピアノ線が揺らぐのだ。冬の夕焼けみたいに。いっそ、夏の宵みたいに。

カンカラン。

毎度ながら突然呼び出しといて。貴方と違って暇じゃないんですけど。どんな悪態をついてやろうかとどっかり腰掛ければタイミング良く運ばれてきた良い香りの紅茶。まだ頼んでいない。握り拳解いてとびきりのアイスティーに口付けるわたしには、一生かかってもテーブル越し、サイフォンのガラスをノックするこの男を突き放すことはできない。

とりとめのない会話。星撫でるみたいに、ぽつ、ぽつって。

逃げ出したいわけじゃなくって、逃げ出せない。

言葉の端を滲ませるのをサイフォンに手伝ってもらいながら、彼は今日も耳朶の透明に触れる。

「ピアス、なんでやめたの」

「彼女がしなくてもいいよって、髪色も。でもこのシークレットピアスだけは嫌がる」

「怒るの?」

「怒らない。でも、俺がこれに触れる間だけはぜったいにこっちを見ない」

「ふうん」

そう、彼女、嫌いなものは見たくないのね。食い入るように見詰めてやった、焼けるほどのレーザービーム。

「髪、伸ばしてんの?」

「ククのその自意識過剰はいつんなったら治るわけ」

「は?」

「ロングヘアが好みなんじゃなかった?」

貴方はそんなふうにわらうひとではなかった。もっともっと綺麗なひとだった。欠けすぎた三日月みたいで、もっと。

肩に跳ねるのを無理矢理捻って浮かせた髪を梳く。冷めきってる。

「...にんげんは女性の髪の長さだとか男性の職種だとかピアスの数だとかじゃなくもっと揺らがない部分で決めるべき、だから」

ククはよくわからない宇宙人の言葉(のようなもの)を吐いて、瞳は濁った湖の底から見上げるように此方に跳ね上がる。

彼はヒトをにんげんと呼ばない。それをわたしはよおく知っているし、知っていることを彼もよおく知っている。

「…………なあに、彼女と上手くいってないの?」

「んん、なんつーか、……別れた」

目を見開くわたしに、白い歯を覗かせたしたり顔。

「あーーー、リリはさあ」

ククに名を呼ばれると黙って視線だけ送る癖が、抜けない。放たれた声の余韻にできるだけ長く浸っていたかった。鈴が、鳴るからだった。

「よく俺の髪を色とりどりにしたよなあ。バッサバサに傷んでもわらいながら触って。ピアスだって痛ぇのは嫌いっつったのに、なんども、なんどもなんども」

ククの表情は前髪に隠れて見えない。

「あれはなんで?」

.....あの日。雪の日。まだ空だって遠くて、背だって変わらなくて。何十回も訪れた看板の錆びた動物園、刺すような寒空の下、ひとが集まるはずもなく貸切状態。いつもよりさらにちいさな四角に閉じ込められた動物たちに、一体あの頃なにをおもっただろうか。ああ肩の触れる距離にいる貴方のことで目一杯だったっけな。

行動可能範囲が広いことだけが自由ではない。それを証明するような日々だった。

「ぜんぶぜんぶ投げ捨てちゃって構わないから」

「は」

「そう言ったのはククでしょう」

バス停前、大き過ぎないギター背負って角の丸まったキャリー引いた背格好、卒業式翌日、18歳。制服の形だけ区切られてた昨日までから随分経ったみたい。自らを隠すように霧の濃い早朝を選んだのがククらしくて愛しかった。

「なあ、リリ」

「...」

「結婚しようか」

あの日のギターも賞状筒も三日月も当て嵌めようとしたピースも、欠けたまんま深い眠りについてた。

ねえ、このまま旅にでようよ。

だいすきな雪もだいきらいな桜ももういちど見せてよ。

「はい」

帰り道、跳ねる耳には、悴まないようお揃いの不透明ひかってた。

卒業祝い。